タイトル | 地底旅団ROVER元老院第106回CAVING | ||||||||||||||||||||
サブタイトル | 第11次沖永良部島洞窟探検隊 | ||||||||||||||||||||
分 類 | 合同・調査訓練ケイビング | ||||||||||||||||||||
入洞洞窟 | 海見洞、半崎大鍾乳洞、大蛇洞、第二洞 | ||||||||||||||||||||
日 程 | 2003年8月10日(日)〜20日(水) | ||||||||||||||||||||
参加者 | 宮野原、牧野浩典(亀戸ケイビングクラブ)、鶴巻琴子(東海大学探検会) 以上3名 | ||||||||||||||||||||
1994年から関東学生ケイバーを中心に行ってきた鹿児島県沖永良部島における洞穴調査に初参加することにした。 10日、沖泳良部島への渡航、実家の宮崎を出発して鹿児島からフェリーに乗り、合計24時間という長旅である。宮崎からは電車で鹿児島まで行った。流れる景色にも飽きてきた頃、鹿児島に着いた。駅を降りてすぐの鹿児島港からの出航だと思っていたが、沖泳良部へは鹿児島新港という3キロほど離れたところからの出航だった。地獄の暑さの中、30キロはあるかという荷物を背負ってひたすら歩いた・・・。 やっと乗船したフェリーでは、前日までの台風で足止めを食っていた里帰りの乗客でごったがえしていた。指定された席に着くと、沖泳良部島までいくつか寄港する度に入れ替わる隣の人と毎回、同じ話をしていた気がする。話題もなくなり、暇つぶしにと持ってきていた雑誌も読み終えた私は、明日に備えてそのまま寝た。 11日、正午を回る頃、船内アナウンスが入った。外を見るともう沖泳良部島が見えていた。海に浮かぶ沖泳良部島はまるで、ひょうたん島のようだった。フェリーが入港し、いざ下りてみると今度は出迎えの人で港は混雑していた。人ごみを掻き分け、ようやく鶴巻、牧野、現地人の白川さんと合流し軽く昼食をとった後、本拠地へ移動。休む間もなくすぐに洞穴へと向かった。 サトウキビ畑のすぐ脇を通り抜け、覆い茂った草木を掻き分け進むと、その影に埋もれるかのように「海見洞」が口をあけていた。早速、私たちは入洞した。右へ左へ一本道を突き進むと、突然、目の前が開けた。立っている場所は崖の中腹、見渡す限りは空と海、圧巻だった。崖を駆け上ってくる風が心地よく感じられ、しばらくの間そこで海を眺めた。その後は出洞した。 本拠地へ戻り、泥を洗い流し夕食にした。食後は、後日の計画を立て旅の疲れもあったことから、早めの就寝だった。 12日、目が覚めると12時をまわっていた。急いで支度をし、本日入洞予定の「半崎大鍾乳洞」へ向かった。体で藪こぎをしながら洞口までたどり着くと、洞口上部から無数の蔦が垂れ下がっており、しばしターザンごっこ?をして遊んだ。牧野と鶴巻の冷ややかな視線が何本も体に突き刺さった。2人とも絶対やったことあるくせにっ!あとから聞くには、ここに来た人は皆ターザンごっこをするらしい・・・。ってことは2人も? 入洞してすぐに、前回の沖泳良部隊の未測量部分に入った。一度奥まで探検した後、測量をすることにしたからだ。・・・30分後、私はスケッチをしていた。洞穴は予想以上に長く続いていた。 測量が終わり、やっと出洞した。日は傾いて、空はすでに明るさを無くしかけていた。本拠地に戻り早速、測量データの整理を行った。なんと、前回の分と今回の追加分を合わせると1000メートルを越えていた。私は、ボスの千葉氏にここぞとばかりに自慢することを決心し、その後、千葉氏に言いつけられた'ヤシガニ捕獲"の命を遂行しに行くという弱気な行動をとった。もちろん鶴巻も犠牲になったが、結局は何も獲れずにヤシガニ行脚は終わり、夜も更けたので就寝した。 13日、「起きろっ!この風来坊めっ!」この一言で目が覚めた。ただ一人だけ話が伝わってなかった本拠地のおかみに、勝手になだれ込んで住み着いていると勘違いされ成す術も無く、渋々と本拠地を沖泊のキャンプ場へと移した。そして3人でフテ寝した。 正午過ぎに目が覚めたが、皆やる気が起きず、気晴らしに海へ行った。波打ち際で呆然と沖を見つめる牧野、ただただ浮遊し続けるだけの鶴巻、そして、ハリセンボンに恋する私の姿が水面に映っていた・・・。そして、沖泳良部の風はそよそよと流れていった。 夜になり夕食を済ませた頃、現地人のヨネさんと瀬川さんが現れた。いつも賑やかなこの2人は、例外なくひとしきり暴れて帰っていった。本当に楽しい人たちだ。2人と入れ替わるように、今度は白川さんが現れ4人で喫茶店へ行った。静かな雰囲気の喫茶で、なぜかコーヒーを店主に奢ってもらった。いい気分のままキャンプ場へ戻り、この日は就寝した。 14日、3人とも午前中に起きだした。前もって教えてもらった洞穴(新洞)に、探検&測量をしに行く予定だからだ。現地につくと、そこはなんと山を切り削って造られた遊水池のすぐ脇だった。なんでも、遊水地を造っているときにたまたま顔を出した洞穴らしい。何はともあれ、一同揃って入洞してみると比較的大きな水流とともに奥へ延びていた。ひとしきり探検した後、早速、測量を開始した。洞窟の中は大きく二手に分かれていて右の方の通路から始めた。こっちの洞内は泥が続いており、気がつくと3人とも天ぷらの衣のように体中に泥を纏っていた。延々と続いた泥がなくなる頃、洞窟も最奥を迎え時間もリミットを迎えたので、出洞した。 キャンプ場に戻り、泥を流した後で軽く測量データの整理をした。残りを測量すれば、1000メ−トルを超えることを確信し、3人で前祝とばかりに焼肉食べ放題へ行った。肉だ!肉だ!と喜んでいたのも束の間、出された肉塊の大きさと量にその後1時間は残酷なものと変わっていった・・・。 帰りに満腹で寝れないからという理由で、ヤシガニ行脚へと移行。牧野と私は酒で乾杯をし、鶴巻の殺人的ドラテクに脳みそを揺さぶられながら何も収獲の無いままキャンプ場へと戻った。キャンプ場では白川さんが待っていて、バカでかいヤドカリをくれた。そして、ベンチに寝転がったまま意識は遠のいていった。 15日、気がつくと正午前。サクサクッと支度をし、前日の測量の続きをした。左側の通路は右側と違って岩と礫、そして二次生成物の発達が著しく多かった。また、琉球石灰岩独特の岩質に、測量が終わる頃には両手が傷だらけになっていた。前日ほどは時間がかからずに測量を終え、ワクワクしながらキャンプ場へ戻り測量データの整理。そして・・・・・・・やりました!やってしまいました!ついに1000メートル突破したのだ!これまたボスの千葉氏に、感じ悪いくらいに自慢してやろうと決心。しかし、またしても怖気づいて断念。鶴巻に「相手が相手だから仕方ないって・・・」と慰められ、次こそは!と心に決めコソコソと製図を始めた。しばらくするといつもの賑やかコンビ、ヨネさん&瀬川さんがやってきた。「差し入れ〜」といいつつ持ってきた菓子を、なぜか自分たちでほとんど食べて、いつものようにひとしきり暴れて帰っていった。 更に時間は過ぎて夜中の3:00頃、キャンプ場に住み着いている黒い子猫がやって来た。みんなは寝てしまっていたので、気晴らしに子猫と遊んでいたが、どうやら私は子猫に飽きられてしまったらしく子猫は去っていった。なんで自分はいつもこんな役ばかりなのかとギモンに思っていたらいつの間にか寝ていた。 この2日間で測量した新洞は、部落に伝わる大蛇踊りにちなんで「大蛇洞」と命名された。
16日、正午過ぎに、皆起床。牧野と鶴巻は、また新たな洞穴を測量しに行くとのことだったが、私はまだまだ製図が終わらないのと睡眠不足のためOFFにした。ゆっくりしようと思ったのも束の間、白川さんと沖泳良部島観光に出かけることになった。見晴らしのいい岸壁、海亀が良く見えるという磯、そして飯のうまい料理屋etc・・・。OFFなどと言いつつ、一日をたっぷりと満喫してしまった。夕方になって、泥だらけになって帰ってきた牧野と鶴巻には言えなかった・・・が、しかし、白川さんからあっさりとバレてしまった。。。2人には、いつもよりくつろいでもらおうと思った。だから夜になってヤシガニ行脚に駆り出した。千葉氏の命令にはやはり背けなかった・・・。2人ともごめんなさい。 ヤシガニ行脚から帰宅して、2人は死んだように眠りについた。私も便乗して就寝した。 17日、竪穴に入りたいと前々から話していたので実行した。白川さんの話では、新洞だと言うことだったので3人ともWAKUWAKUしながらSRTで突入していった。底に着いた瞬間、ピィィィンときた。"デカイ・・・"高まる心拍数に激しくなる鼓動、息を呑んで行き着いた先にあったのは石筍に縛られた白いもの、置手紙・・・だった。どうやら私たちは少なくとも2番手だったようだ。ただ前人の方たちが、水没して行けなかった所が今回は減水により通過が可能になっていた。そこでその先を私たちで測量することにした。もともとスケールが大きかったので先へはかなり延びた。出洞してから置手紙主に電話連絡をとってみると、これは「第二洞」とのことだった。 久々にゆっくり風呂に入りたいと温泉に行くことにした。温泉の湯船はやはり広くて気持ちが良かった。風の噂で、男食家が出没すると聞いていたので怖かったが、今思えばもし同じ浴場にいたとしても、顔が怖いとよく言われる私に近寄ってくるはずもない。むしろ、いつも優しい表情の牧野の方が危険にさらされていたのかも・・・? 風呂から上がった私たちは、恒例のヤシガニ行脚に出かけた。ヤシガニが捕獲できなかったら、自分にも被害が及ぶことにようやく気づいた鶴巻は、どことなく虚ろな面持ちでヤシガニに目を光らせた、殺気立っていた。 キャンプ場に戻り、疲れたからだをベンチに横たえていると別の世界に誘われるかのように眠りに着いた。 18日、いつものように正午過ぎに目が覚めた。牧野が仕事の都合で、明日帰宅しなければならなくなり、フェリーと飛行機のチケットを取りにいった。その後は、白川さんも含めた4人で町をブラブラしていた。本日は洞穴には入らないと決めていたので夜までゆっくりしている・・・はずだった・・・。夕方になって、ヨネさんと瀬川さんが花火を持ってやってきた。そして、牧野が明日帰宅ということもあって猛烈に暴れて帰っていった。2人の帰宅後、すぐに就寝した。 19日、正午過ぎに、牧野が沖泳良部島を後にした。もともと少人数だったのもあるが、一気に寂しくなった。フェリーが小さくなっていくのを一時眺めたあと、白川さんと3人でまだ行ってない名所をめぐった。途中で立ち寄った喫茶店は、海のすぐ側にあって時折海面に浮いてくる海亀を見ながらの食事だった。日本一大きなガジュマルの木を遠めに見ながら、山ひとつ分の植生がまるごと熱帯性の植物に変えてあるという山にも行った。 夜は白川さんの家に泊めてもらうこととなり、温泉に行った後、伺った。その後、酒を飲みながら雑談となり夜も更けた頃、就寝となった。 20日、朝早くから起床し、本日は私が沖泳良部島を発つので荷造りをした。フェリーが出航するまでかなり時間があったので、港で釣りをした。これまでにも何度か釣りをしていたが、ハリセンボンしか釣れなかったので今回は大物を狙っていた。しかしいくら粘っても何も釣れない。そうこうしている内に、はるか沖の方に小さくフェリーが見えた。やがてフェリーは近づいてきて、目の前に巨大な船体を着岸させた。時間いっぱいまで釣りをしたが、結局なんにもつれず渋々とフェリーに乗り込んだ。フェリーの甲板から見下ろすと、島が見渡せた。小さいけど、中身の濃い島だった。やがて汽笛を鳴らしてフェリーは動き出した。見送りの鶴巻と白川さんに一礼し、船内に戻った。 出航してから21時間、いろいろ思い出しながらの帰路だった。一昼夜かけて鹿児島に着いた。その後も、行きとまったく逆の順序で実家の宮崎まで帰った。ただ少しだけ、10日前より暑さが和らいでいるような気がした。(文責 宮野原弘規)
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